スタッフ出張報告

2012年1月-6月
藤本 正樹

「はやぶさ」サンプル分析・第一回国際AOを終えて

「はやぶさ」は2010年6月、小惑星イトカワから微惑星を持ち帰った。その時点で藤本は、サッカーW杯を見つつ、国内の「はやぶさ」フィーヴァーにやや驚くことはあっても、自分が巻き込まれることになることを知らない。本田圭祐のデンマーク戦でのFKをマドリッドのアフリカ・バーで見たことは、ここのバックナンバーにある通り。

帰還したサンプルは事前に選定されていたチームによる初期分析にかけられた。その間のことは、随分とサンプルの拾い出し・回収に苦労しているという噂話と、新聞に良い感じの笑顔でとりまとめ役の「ヒゲの向井先生」が写っていたこと以外、何も知らない。

母天体の衝突・破壊を経て小惑星表面で宇宙空間に曝されることになった微粒子らの物語が速報された2011年夏頃、向井先生から藤本は国際AOの「手伝い」をするよう、かなり唐突に言われた。「ジオテイル」で国際的に活動するチャンスを与えていただいた恩師の頼みは断れない。それにAOならば、最後は採択を決する会議となるはず、海外勢と議論しながら物事を決めていく過程は嫌いではない。さらに、その場に同席した理学委員長からの圧力がすさまじかった。同じく同席していた稲谷プログラム・ディレクタからは、「向井さんには、頭が上がらんみたいやの」と指摘された。が、それだけではない、ということだ。

ちなみに、「手伝い」とはAO委員会の座長をやるということだ。やくざな話の進め方である。

NASAとの約束等から、AO発行の日程を決め、国際AO準備会でシニアクラスのご意見をうかがって大方針を決める。JAXA丸の内の会議室という慣れない環境で、JSPECの山浦リーダー、山崎さん、RESTECの小泉さん、山本さんらと「初めまして」という慣れないことをぎこちなくやる。いつものことだが、名刺を忘れた。彼らとは、みっちりと共同作業をすることになるとは、この時点では知らない。

シニアにとっても初めてのこと(というか、世界で初めてだ)、準備会では不安と期待が入り混じった議論となった。その中で、「どんどん拾ってサンプル数を増やすように」「最初に盛り上がることが大事だから、できるだけ多く配布するように」という主張は目立った。その一方で、「はやぶさ」微粒子は、そのサイズが技術的ハードルを高くするので応募出来る研究者数が限られる、という議論にもなった。結局、30〜50の提案はあるだろうから、がんばってやりなよ、という、やや、突き放されたと感じる雰囲気で国際AO委員会がスタートする。この時点で、藤本はキュレータの安部さんと「走りながら考えること」を覚悟する。

委員会には、NASAからマイク・ゾレンスキ―が参加する。このキーパーソンとの初顔合わせもうまくすませ、委員会メンバーも決め、3月のLPSCの日程をポイントにしてAO進行の全体日程も決める。5月初旬の一週間の最終合宿で採否決定することとした。

提案書はメールで受け付けるのでメールアドレスの設定、受付後のサーヴァー内でのファイル処理の流れ、レフェリー・レポートとの合流とそれを委員会メンバーへと効果的に提示するページの設計、そして、それらシステムのラン・スルー試験等を(走りながら考えつつ)済ませて、2012年1月のAO発行を迎える。で、記者発表せよ、となった。冗談だろと思ったが、「はやぶさ」はそういうもの、らしい。ロンドンで買ったチョーク・ストライプの黒スーツにミラノで買ったオレンジのタイを合わせてこなす。後でウエッブを見ると、「おいおい、5分で終わったよ」という実況が残っていた・・・。ではあったが、こちらからの短い発表の後に全体質問が30分、さらに、解散後もぶら下がり質問もそれぐらい続いたのだった。おそるべし「はやぶさフィ―ヴァ」。安部さんが、粒子数の数え方に関する質問(「拾ったのが200個で、ヘラが1500個だから、足すと・・・」)にキレていたのが印象に残った。それと、また名刺を忘れた。

2012年2月、初期分析を担当した岡山大・三朝グループが主催するシンポジウムに参加。そこでは、「はやぶさ」映画の主題歌を歌ったふみかちゃん(おっさんがビールを飲んでいるシンポの懇親会で歌わされる姿は、スーパーの入り口でビールケースの上に立って歌うドサ回り演歌歌手のようで気の毒だったが、ま、そういう世界なんだろう)も呼んでのパブリック・イヴェントがあった。5,000人ぐらい入る会場が満員となり、みんながスクリーンに映し出された「はやぶさ」微粒子(って、ただのダストなんだが・・・)を見つめていた。UCLAの教授(酸素同位体分析の第一人者)が、「なんか、すげぇ雰囲気だな」と感想を漏らした・・・。プロ向けのシンポジウムでは、「はやぶさ2」とOSIRIS-ReX、水星の太陽系起源論における立ち位置(京都水星探査会議から続く、マイ・ブームである)といった多角的な議論を展開できたので、企画と当日の進行に一部関わった人間としては、楽しいものだった。また、この時点で「はやぶさ2」のサイエンス議論にも関わるようになっていたのだが、その流れでグラスマイヤーをドイツから招待し、ここで議論したことがきっかけとなって、藤本は「はやぶさ2」搭載MASCOTの磁力計チームに加わることとなる。

2012年3月上旬、提案締め切り。提案書を整理して委員会メンバーに提示し、3月下旬にヒューストンで開催されるLPSCという会議(宇宙惑星物質分析分野では、最も多くの人が集まる会議である)に寄せて開催する委員会ミーティングで、レフェリー決定がスムーズに進むように準備する。委員会会合は、NASA Briefing のあと、マリオット・ホテル(学会会場)の会議室にて午後7時から10時まで。エグゼクティヴな部屋で、オーダーしたサラダやサンドウィッチをつまみつつ、3時間みっちりと議論して各提案にレフェリーを数名アサインした。ここで委員会のノリをつかんだのだが、いつものように、海外勢は言いたいことは言うというスタイルであり、座長側に必ずしも想定した答えがない今回のようなケースでは、うるさいというよりも頼もしく感じる。彼らは、実は、いつも「走りながら考えている」のだろうかと、ふと思った。この会合を最後に、向井さんはこの活動から離脱する。お疲れ様でした。

ヒューストンということで、NASAのキュレーション設備があるジョンソン宇宙センターを訪問し設備見学もした。両手の指全部の指紋を採られてから、ようやく入場。入ってしまえば、「おう、よく来たな」という感じで、ゾレンスキーにずんずん連れ回される。「重いだろ、鉄が多いから」と思わず「おおおぅ」となる感じのデカイ隕石を持たされたり、まだ建設中の「はやぶさ」サンプル専用・キュレーション室を見せてもらったりした。洪水が来ても大丈夫という銀行の金庫室のような部屋へと通され、Apollo11と表示のあるキャビンに正対したときは鳥肌が立った。フル装備でクリーンルームに入り、Stardustのサンプルホルダーを取り出して、ゾレンスキー自らの熱のこもった解説を聞くのは、贅沢な経験だったのだろう。ただ、解説が熱心なあまりに、マスクがポコポコと顔から浮くような感じになっていて、これっていいのかと、気になって仕方がなかったのだが。ジョンソンは、スペースシャトルの中心でもあったが、そのプログラムは終了した。敷地の真ん中にガラガラの駐車場があったのだが、「昔は、あれが全部埋まっていたんだけどね」とのこと。体育館のような建物には、国際宇宙ステーション(ISS)の模型が展示されているのだが、スペースシャトルの模型の残骸(分解されて博物館へと運ばれる途中らしい)もあり、それを使ってクルーの訓練を行っていたとのこと。実際、その時は、ISSの模型の中で緊急心肺蘇生の訓練をやっていたように見えた。

レフェリーからのレポートを待ちつつ、頃合いを見て委員会メンバーにも評価レポート執筆のトリガーをかける。そして、GW明けの4日間、新A棟会議室に籠っての最終選定会議である。東横インとの往復だけの生活、ランチの選択肢がISASカフェテリアだけという4日間に文句を言うことなく、逆に議論においては意見を言い合う雰囲気で、会合は進んだ。ただし、事前に答えは想定していないので、座長は議論の進展を正確に追跡しつつ着地点を予想しながら議論をナヴィゲートしなければならない。また、そこでの議論だけでなく、提案書で要求されているサンプルIDの把握(特に同じサンプルが複数の提案書においてリクエストされている場合に問題になる)、配分するサンプルのサイズ分布全体像の把握(サイズごとにある割合以上を将来のために残しておきたいという、キュレーション側要望との擦り合わせのために必要になる)も行う必要があり、議論とともにアップデートされていくデータベースの確実・正確な更新と、その整理・表示方法へのダイナミックな対応も求められた。要するに、全編アドリヴといったところである。キュレーション設備・上椙さん、サポート契約をしていたRESTECの小泉さん・山本さん(彼・彼女は、地球惑星科学の学位持ちである)でなければどこかで演奏が止まったかもしれない。とにかく、即興的な動きが要求された。

準備会でシニアからキュレータ・安部に猛烈にかけられた粒子数に関する圧力だが、委員会ではむしろ、「よくわかっていない段階で、貴重な粒子をじゃぶじゃぶ配ることはやめよう」「ほんとうに必要な粒子数だけきっちり見究めてから、配分しよう」という雰囲気であった。実際に、サンプル・カタログをひっくり返しての、粒子属性を確認しながらの議論にもかなりの時間を費やした。カタログの写真(ただのダストなんだが・・・)をスクリーンに映すと、「あ、こりゃ、つまらんな」なんて反応がすぐにあったりする。吉田兼好の世界である。

 

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写真: 国際AO委員会メンバー 相模原G棟キュレーション施設見学

 

無事、委員会をクローズし淵野辺駅前のタイ料理屋で打ち上げ。JAXA内手続き、宇宙開発委員会での発表を終えて、記者発表が6月13日。「帰還から、ちょうど二年ですが?」と聞かれて、「そうだよな、その時W杯で、今はEUROだもんな」と思ったが、もちろん口には出さない。発表後(今回は、ザッケローニ風の服装)では、随分と長く質問があったが、記事はAO発行時よりも少ないという印象。まあ、そうだ、採択されたチームが結果を出したら記事にするべきだ。

今後は、準備会相当の親委員会がキュレータやAO委員会といった実務担当レヴェルに、高所大局からの、そして、長期的視野に立った方向性を与えるという体制が必須となるだろう。何しろ、キュレーションとは、たとえばアポロでは40年だが、10年20年単位で先を見据えてサンプルを保管しつつ、並行してタイミングよく研究機会も提供する、ということである。個人の責任ではなく、コミュニティ・エフォートという形にしない限り、決断なんてとてもできないと思う。一部には、「NASAにくれてしまえ」という乱暴な意見もあったと噂には聞いたが、一連のAOの経緯を説明する機会(JAXA理事会等)では、そのような意見のかけらも見えず、世界で三番目(米・ソ連に次ぐ)にアストロ・マテリアルのキュレーションをすることへの誇りと責任ということに対して、理解は得られているのだと確信する。

 

編集:浜田恵美子 2012/07/03