スタッフ出張報告
SCOPEへの道
藤本 正樹
1999年ごろ | 2002年 | 2004年 | 2005年
(関連リンク: SCOPE/CrossScaleが目指すサイエンス [衛星ミッション])
(関連リンク: Cosmic Vision 2015 - 2025 欧州宇宙機関のホームページ )
オレは、96年に東工大へ赴任した。まずは、自らはジオテイル・データ解析をしながらも、院生へのテーマ展開という意味ではシミュレーション研究室を立ち上げることに集中した。そうするうちに、首都圏に若手が物理的にはそこそこ集まっているのに、所属機関を跨いだフォーラムがないことに気づき、木星研究会をセキカナコとともに立ち上げた。
そのころ、ジオテイルIIと呼ばれていた次の地球磁気圏探査は「おっさん」らに任せて、オレらはその先を考えるという意味での「木星」だったのだが、次期地球磁気圏探査WGの活動ぶりがどうもおかしい。何のアクションもなされないのである(その間、ベッピはすいすいと進む。ふ〜む。…。)。そこで、痺れをきらして、研究会のテーマを「次の地球磁気圏探査のあるべき形」というものに変更した。そこから、SCOPEとERGのアイディアが出てきたのである。
2001年3月、次の地球磁気圏探査はSCOPEかERGか、という議題でISASにて「おっさん」らも交えて会合が行われた。オレは、東工大・地球惑星専攻のNZ地質巡検(!!!)の引率に行かねばならず、途中で会合を離れた。なので、どういう雰囲気で結論が出たのかを知らないのだが、SCOPEで行く、ということになった。そして、ERGは、その後、小型枠で復活する。
『SCOPEとERGのアイディアは、若手の勉強会からはじめて具体化した。』その間の情熱と真摯さがあればこその今だ。その若手達が築き上げた舞台に、(それまでの貢献はゼロで)途中参加する者がいたことは言うまでもない。
SCOPEで行く、ということになったのだから、あとは「おっさん」らに任せればいいのだろうと思った。ところが、SCOPE・WGは、2001年度の戦略的開発経費申請で、なんとも間抜けなことに、ゼロ査定を食らう。つまり、WGは一年間何もできなかったのである。もっとも東工大助教授であった当時、その意味はよくわからなかった。それどころか、そもそも戦略経費のことを知らなかったと思う。WG活動がそういう状態にあったということだ。
そして、一年が経過し、2002年4月、2002年度の戦略経費申請応募があった(らしい)。そして、このままではダメだということで、齋藤(おそらく)が、EGUのためにニースに滞在中だった笠羽・篠原・藤本に緊急招集をかけた。それで、何のことかわからないまま集められ、とにかく、明日までに作文しろ、ということになった。4月下旬、外では既に泳いでいる人間もいる中、篠原が宿泊していた高級ホテル(大概いつも、篠原が一番高級なホテルに宿泊する)の薄暗いロビーで、4人と2台のノートPCが集まったのである。まず、2001年度の申請書を見て絶句する。なんだ、これは?ゼロ査定当然でしょ。ということで、全体構成を決定することから始める。要するに、トップレイヤー:こういうサイエンスを狙う。レイヤー1:そのために、(A)こういう衛星構成が必要、(B)こういう観測機器が必要。レイヤー2:(A)(B)に関しての開発計画。レイヤー3:(A)(B)に関して、今年度の開発計画。と、整理するのだが、それがまったく出来ていなかったのである。アホな…。とにかく、これを決めた後、笠羽齋藤(ビジネス)と篠原藤本(サイエンス)に別れて作文に入る。午前に集まり、途中でサンドウイッチとドリンクの補給だけで、終わったのがディナー開始によい時刻。ホテルの人も、あのジャポネーゼらは何なんだと思っていただろう。その夜、齋藤が5千円かけて電話経由で申請書を送った。ネットがまだまだの頃。
この頃から工学チーフの津田さんが入り、WGでの検討が活発化する。津田様は巨匠です。で、CADでの図面なども出来るようになったし、ちょうど良いセッションもあるし、とりあへづ、という程度の感覚で7月、パリCOSPARにて発表する。するとそこで座長をしていた、やたらにデッカいおっさんが、やたらと好意的な反応を示す。誰や、こいつ?実は、今や、ESA科学局・太陽系プラズマ部門ヘッドをつとめるオプゲンノースであった。それまでは、クラスターは他人事で、欧州に知り合いを持つものはオレらの世代ではほとんどおらず、ましてや、「ビジネス」とは無関係にやってきたのでESA科学局の人間なんて知りあうわけがない。この「顔も知らねえよ」という2004年夏の状態から、急に局面が展開し始めるのが秋。ちなみにパリ滞在中、毎日、篠原とラファイエット(百貨店)のカフェテリアでシミュレーションの議論していた。大規模計算が出来るようなって、楽しくて仕方がなかった頃。
10月、小型衛星に強いスウェーデンをとりあへづ訪問しよう、ということにしていた。これと並行して、ISAS−ESAで、磁気圏での「マルチ・スケール観測」を将来計画としてどちらも考えているようだから共同を考えないか、という話に(突然)なった(らしい。何しろ、上層部での話なので)。旅程の最初にグラーツを加え、藤本が単身乗り込むことになる(スウェーデンへは結婚直前の津田さんと齋藤が同行)。とは言っても、るみさんがいて、話し相手はその旦那バウムヨ−ハンという気安さがある(が、その時点では、ほとんど論文で名前を見たことある人というレベルだった)。実際、この初回以降、グラーツには入り浸りで、もはや、グラーツの街は庭である(カフェなら「ドン・カミリオ」、とか、そういうこと)。欧州にM-cubeというアイディアがあること(いまや信じられないが、全く知らなかった…)や、これは一緒にやるべきだよね(いまや信じられないが、このように言うことは「たいへんに勇気にいること」だった=単独優位機会を捨て去るだけのバカかもしれないという不安が、当時、メインに心配すべきことだったのだ。ああ、ユニテラリズム、隔世の感がある。)、などと友好ムードで話した。
むしろ、期待していたスウェーデンのほうがピンと来なかった。ここで、「JAXA・主+スウエーデン・従」という小さな構図ではなく、大欧州とのがちんこ共同へと舵を切った(のだと思う:記憶が曖昧。だいたい、まだ東工大にいたのだよ。)。
この間のはっきりした記憶がないのだが、多分,マメに連絡をとっていたのだろう、4月にESTECで開催されたESLABという会議に招待される。ここでは、その後「コズミック・ヴィジョン2015−25(CV2015-25)」と呼ばれるようになる将来計画募集への提案が想定されるアイディアを、宇宙科学の全分野が表明するということが行われた。宇宙プラズマ関係からは、4つ(欧州3、日本1)、全部が全部「マルチ・スケール観測」を提唱し、かつ、国際協調ムードもバリバリで(半年の間にそうなっていたようだ、こうやって思い出してみると。ただ、マイル・ストーンを思い出せないのだが。)、ちょっと、他分野の参加者は毒気を抜かれたようになっていた。
5月グラーツで、日欧共同提案に向けた最初の全体会議が開催される。今から思えば、随分と緊張していたなと思うし、当時はほとんど誰も知らなかったのも笑える。その中で、プラズマの面白さの根源とかいう話になり、シニア(50歳代中盤)らが教授然といろいろ長々と薀蓄る中、「MHD的なJ=rot B と粒子的な J=en(Vi-Ve) とのせめぎ合いだ」とシャープにコメントした。SCOPEの立場を確立する上で、ひとつのdefining moment だったと思っている。
将来計画の「ビジネス」ばかり話しあっても、面白くないし、何より、サイエンティスト同士としての信頼関係は生まれないとオレは思う(思わない奴もいるだろうけどね)。ということで、この頃からクラスター業界へと参入を開始する。ややこしそうな欧州市場にどう切り込むか。簡単だ。こちらにあってあちらが欲しいものを提供するまで。ということで、ジオテイルの経験、あるいは、シミュレーション結果に立脚したアイディアを売り込みに、グラーツ・ウプサラ・ロンドン・ツールーズと訪ね歩く。クラスター会議に出席するようにする。同時に、日本へとクラスター・データ解析環境を導入することをOKしてもらえる雰囲気をつくる、ということを行った。セキヨシタカのロンドン滞在(2006年秋)やカサハラのグラーツ出張(2008年3月)も、この流れの中にある。2007年2月に長谷川とウプサラを訪問した時は、寒くて死ぬと覚悟したが、もっともひどかったのは、スパイスの効いていないインド料理という不意打ちを食らった時だ。スウェーデンでは、全ての味がパンチレスである。
この東工大最後の年、ISASの客員スタッフとしての海外出張は10回を数えた。中村正人は人使いが荒い。ちなみにISASに移籍後は、年15回超である。
まとまりがよく成果を効率的に生み出すグループを作れたこと、また、雌伏10年の末にようやく惑星系形成論における磁場効果テーマを立ち上げたこともあり、後ろ髪をひかれる思いであったが、4月に藤本はISASに移籍した。「おっさん」になったわけである。ISASでまず立ち上げたのは、クラスター・データ解析を行う環境を日本のコミュニティに提供することである(ISASは共同利用機関なのだ。そうであることのメリットを私物化する機関もあるようだが、ISAS/STPでは絶対にしない。)宮下が作り上げたのがCEFであり、これは、そのままTHEMISへと繋がっていく。
同時に、太陽系探査ロードマップの執筆作業にいきなり巻き込まれる。そこで立ち上がったのが「黄金20」コンセプトである。「われわれは、今後20年で、水星・地球・木星を舞台に、宇宙ガス現象の「その場」観測が可能な太陽系空間を実験室として最大限に活用し、『磁場を通して宇宙を視る』フレームワークを確立するに貢献する。」今後、これを繰り返し訴えるのだが、結果的に、特に欧州で高い評価を得ることにつながったのだった。
7月、北京でのCOSPARにくっつけてILWS会議があった。ILWSは、世界メジャーの6宇宙機関(NASA、ESA,カナダ、ロシア、中国、JAXA)が中心に、太陽系プラズマ分野ミッションに関する国際調整をする場である。JAXA代表は故小杉先生(太陽物理)だったのだが、チャンスを与えるという意味だったと思うのだが、藤本にも出席するように言われ、かつ、好き放題にプレゼンをさせていただいた。応援していただいていたのだと思う。あらためてご冥福をお祈りする。亡くなられたときにあれほど惜しまれた方を知らない。
来年いよいよCV2015−25の提案募集があるよ、と噂が流れる9月、ロンドンにてCross-Scale(欧州側のミッション名)国際会議が開催される。ということで、ISASのコアメンバー全員(齋藤、松岡、高島、篠原、藤本)が参加し、ポスター発表し、かつ、オーラル発表で観測機器を説明する部分では、全体説明の藤本に代わって各担当者が前に出てきて自ら説明する、ということを行った。会議前、ロンドン在住経験のある松岡さんの手引きで大英博物館のカフェに集まる。打ち合わせと称して、雑談。ポンドがやたら高いべ、とか、高揚感の中でも普通の話。昼食後、会場へ。全員、やってきたことを欧州よりも検討が進んでいることに自信を持って発表したので、強い印象を与えることに成功した。UCバークレイの知り合い・マクファデン(粒子計測ではかなりの人物、かつ、皮肉屋である)が、「齋藤の、あかんでぇ」と(あかんのなら普通は無視すればいいのに、わざわざ)言ってきたので齋藤に聞いたら、「は、あ、別に」と、自信満々に流し捨てたのだった。
2月、USでのサバティカル開始を間近に控えた津田巨匠とともにESTECを訪問し、状況整理を行う。ここで議論の相手だったヴァン・デン・ヴァーグは、この数ヶ月後、急死してしまう。冥福を祈る。
直後、パリのESA・HQで開催されたESAとJAXAの二機関会議というものに、SCOPE代表ということで藤本が参加した。こういう会議は上層部だけでひそひそ、という印象を持っていたし、実際、この回まではそうだったと思うが、CV2015-25においてJAXAが幅広くさまざまな分野にわたって共同提案する見込みであることを受けての召集である。勝負が始まったという気持ちが高まる。オプゲンノース、コラディニあたりと、「ある種の」信頼関係を築き始める。このあたりから、演説系プレゼンをする機会が増えていく。
ちなみに、この二機関会議のウラでは、ハワイでシミュレーション・スクールが開催されていた。招待も受けており、当然、参加する気満々だったのだが、研究者としても興味よりエージェンシー・ビジネスを優先させられた。これも、ある種の defining moment だったと思っている。
CV2015-25提案書締め切り期日が明らかになった5月、ロンドンにて打ち合わせ。具体的な作業というよりも、最後はオレが一人で書く、とシュワルツが宣言するための集まりだったように思う、結局。パワーディナー中、気分が悪くなり手洗いに行った。洗面台で水に手を浸していたら気を失ったらしく、正面の鏡にごんごんごんと頭をぶつけた。そこで目が覚めたのでテーブルに戻り、エールを飲み続けた。つまり、国際共同をやるとはそういう側面があるということだ。
6月末、欧州側の提案締め切り。日本のコミュニティから100名以上がsignatoryとして登録された提案書が提出された。この署名を集める段取りを、GTネットワークを活用して、ほいほいほいと当然のように進めたら、欧州勢からはまとまりのよさを感嘆された。
書類審査の結果、太陽系科学分野では8候補だけが残った。その中にSCOPE/Cross-Scaleは、もちろん残った。9月、ISASにて開催されたJAXA−ESAバイラテラルは、Cross-ScaleのようにJAXAが共同提案して、かつ、(天文分野も含めて)最終候補に残ったものについての議論ということだった。その日の朝、ドイツから成田に着いて、家でシャワーを浴びるも結局汗だらだらで会場に到着して、もう一回演説プレゼンをした、という以上のことはない。ただ、汗だら、かつ、遅刻で、他のプレゼン中に到着したのでドアのところで立っていたら、気づいたオプゲンオースやフォークナー(ESA側の技術部マネージャー)がわざわざ握手に来てくれたことが心強く感じたことを覚えている。ところで、会議後の上層部の会食では何を話し合っていたのでしょうね?
10月、モスクワでスプートニク50周年記念式典があった。ここでも「黄金20」の話をする。ESA側Cross-Scaleの審査をすぐあとに控えていたので、そこで不首尾で終わったらということがちらつき、「なんだよ、話だけだったんじゃん」とバカにされたら嫌だなあ、ということを意識し始める。それもあり、また、いろいろとバタバタがあり、さらに、断ったはずの協力に関するIKI所長との圧迫会談ありで、疲れる一週間だった。
そして、10月パリESA・HQにて、いよいよCross-Scale審査である。太陽系科学で最終ステージに残ったのは8提案、このSSWGと呼ばれる分科会での審査で3〜4まで絞られ、翌週の宇宙科学全体での審査(SSACという委員会で行われる)へと進む。Cross−Scaleの審査は昼食直後。昼食後、食堂のカフェ・スペースで審査員(半分は知り合いである)と一緒になり、週末にあるラグビーW杯準決勝・フランスvsイングランドの話などをするが、正直、無理して話をしている。いよいよ、審査。Schwartz先生はいつものように、するすると話し、あっと言う間に20分が終わる。質疑では、よい雰囲気のやりとりの後、急転してなぜか予算見積もりの精度という話になり、かねがねESAの態度に不満があったSchwartzもギア・チェンジして、会場は混乱気味に。このままでは何だと思った議長が、せっかく日本から来たのだから一言どうぞ、となった。事前に準備がなければヤバイところだったが、念のためにと準備したものを使って、堂々とこなすことが出来た。
終わったあと、カフェでSchwartzとビールを飲む。Schwartzは「んま、大丈夫だな」と余裕である。実際、翌日の夕方、Cross−Scaleが2位通過という知らせがSchwartzからメールで届いた。1位はもちろん木星探査計画Laplaceであるが、クラスが違うのでこの差には意味がない。つまり、can’t be better という結果だったわけだ。嬉しかったか?いや、SSACではどうなるんだ、SCOPEは大丈夫か、とすぐに次の案件が頭に浮かんだだけ。やれやれ。
帰国後、授業などをしながら、落ち着かない気分でSSACでの審査結果を待つ。18日夕方、わずか一行のメールによる非公式第一報が入る。Cross−Scale通過!やれやれ。次はいよいよSCOPEだ。
12月、AGU直後に相模原でNASAとの二機関会議があり、出席を求められる。つまり、AGU直後にあるTHEMIS・SWTでなく、またしても、エージェンシー・ビジネスを優先させられたことになる。NASA側の対面(Heliophysicsのヘッド)は、太陽屋で、太陽にしか興味がなく、かつ、役人野郎であり、正直、成果が見込めないので気合も入らない。一方、サイエンス全体のヘッドAlan Sternは面白い人物で、実利はないものの話が出来たことはよかった。ただ、面白すぎる人物だったようで、その後、NASA上層部と喧嘩をしてやめてしまった。
Cross-Scaleが、ISASで言うところのPrePhaseAに進んだので、WGに相当するSST(Science Study Team)が欧州全体をカヴァーするように結成され、JAXAとNASAからもメンバー参加した。SCOPEからは藤本と齋藤である。その第一回会合が2月に開催された。これは、この後、1ヶ月に一回のテレコンを挟みながら、3ヶ月に一回程度の頻度で開催される。メーカー検討に出すので、ミッション定義やペイロード定義を文書としてきちんとやる必要があり、かつ、A/Oはまだ先なのだからこれはあくまでもストローマンに過ぎないことをきちんとしなければいけない、などなど、ESAならではの面倒臭さを傍から観察する。また、この頃、NASAがTHEMISを担当したUCバークレイのメンバーから構成される検討チームに資金援助をすること、当然、THEMISをモデルにした検討が想定されていること、NASAには適当なサイズのロケットがない(デルタ2引退後、アトラスしかない)ことから検討チームがH−2Aのデュアル・ランチに本格的に興味を持ち始めたことが、わかり始める。
来年度にいよいよ提案、いきなり提案書はしんどいだろうからという軽い気持ちで、年度末(3月末)を目処に「中間報告書」を出そうということにした。軽い気持ちだったのだが、実は、やっておいてよかった、いや、中間報告書がなかったら提案書は破綻していただろう。3月末の予定を大幅に遅れて5月中旬に完成。
ESAでのCross-Scale第一次審査通過を受けて、SCOPE/Cross-Scaleへ共同することへの興味は全世界で一気に高まった。その中、6月プラハで開催されたILWSでは、カナダCSAの代表William Liuと突っ込んだ話をした。当初、カナダはESAの協力国でもあることからESA経由での参加を考えていたのだが、ESA側の様子からその隙間がないので、SCOPE経由での参加を本気で考えるようになったのだ。7月モントリオールCOSPARの際に、会合を持つ約束をとりつける。あとで、これも defining moment だったと知ることになる。
7月モントリオール。CSAでの会合の前に、SCOPEの遠子機3機の製作を分担してもらう、という案をLiuとのメール交換で押し込んでおく。また、会合の前にCSAにとってのメリットを分析する:世界的な国際共同ミッションに参加するチャンス、打ち上げ機会が提供されることの意義、遠子機3機というちょうどよいクラスのチャレンジ、これまでの実績の自然な延長線上、コミュニティをリードするメンバーの適齢性(40台前半に有力メンバーがちゃんといること)。また、LiuのCSAにおける立場(CSAでは、ずば抜けて科学研究の業績があるという評判)に関する情報も仕入れる。イケる、強気で押すべしと判断し、USでサバティカル中だった津田巨匠とも合流して、建物が投資銀行のようにカッコよいCSA本部へと乗り込む。前向きな会談のあと、後日COSPAR会場で、ISAS本部長相当のKendallと会談。1対1での30分程だったが、その間じゅう、青い瞳と白眼の境目にこちらの主張をごごごごと押し込むつもりで、勝負をかけて対談する。話しながらも、頭の中では、YESと言え、YESと言え、と呪文を唱え続けていた。で、前向きに対談を終える。実は、これは、ものすごく大きな defining momentだったということにあとで気づく。
COSPAR後、9月末の提案書締め切りに向けて、作業開始。思ったようなペースでは進まない、中間報告書があってよかったと実感する。また、それまで本気では考えてこなかった予算の話も入れる必要があり、そこで初めて、CSAの参加はあったほうがよいというレベルでなく必須であることに、当然のことであるしその前からわかっていたはずのことだが、事実としては、この段階で初めて本気で認識した。やれやれ。CSAの参加は、5〜6月以降に藤本・Liu・Schwartzの間でなんとなく相談して一気に詰めたという感じである。こんなことがあっていいのか?いや、これもSCOPEの「引き」の強さがなせる業ということだろう。提案書作業ではケニー田中が大活躍。それでも、最後は締切日9・30の26時過ぎに終了となった。齋藤が、意外に、だらしないのだ。
一週間後、仙台の学会で提案書の提出を報告し、これは始まりにすぎませんよ、という趣旨の話をする。それを見て、カッコよい、と言ってくれた東北大の学生がいるらしい(浜田さん情報)。いや、そうじゃあなくて、自ら参加しビルドアップに貢献してくれなければいけないんだよ。
10・20の第一回を皮切りに、2009・1・9の第4回まで理学委員会から選出された評価委員会によるSCOPEの審査が行われた。詳細はここに書くべきでないのだろうし、また、書く気にもなれない。というのは、この段階で既に、主役は高島・齋藤らになった感があるからだ。つまり、そういう種類の議論がメインだったということだ。
審査の経緯上、MMS・PIのBurchにMMSからSCOPEへの協力をとりつける必要が生じた。10月にUSであったワークショップで会ってお願いしたら、いいよ、とすぐに書いてくれた。良い奴だ。また、審査途中である11月末に磁気圏シンポ国際版を開催し、ERGとともに、国際共同を盛り上げる議論を行った。懇親会を院生がアレンジしたこと(当然、場所は「やる気茶屋」)は日本における研究活動の進め方を象徴していて、かつ、それが好意的にとられたことは、日本の現状を宣伝するというもう一つのシンポの目的にかなっていたと思う。
1・22の第21回宇宙理学委員会で評価委員会報告が認められ、SCOPE提案のMDR通過が承認された。SRRは、CSA側も固まってから、ということになった。SCOPEのJAXA担当分は中型科学衛星相当であるが、SCOPE全体では大型規模になるので、この手順はきわめて合理的であろう。
今、ESTEC(オランダ)での会議からCSA(カナダ)への会議へ向かう途中の、シカゴ・オヘア空港でこれを書き終えた。CSAの後、UCバークレイ訪問の予定だ。忙しい生活が続く。
つまり、スタートを切るのに10年かかったということだ。
この間の研究進展が、MMSの魅力をややもすると色褪せさせたのに対比して、SCOPEでは、その価値がより深く理解され、より強く求められるものになったと思う。運がよかった?MMSを超えなければならない、というハードルが設定されていたことには、その側面があることを認めないわけにはいかない。
また、SCOPEを検討する間、「もっと簡単ですぐに出来ること」をやれというブーイングが激しくあったことも記しておこう。そのブー野郎にあらためて聞こう。そうやって世界の片隅で自慰行為にふけるだけなのと、世界が認めて自ら共同しようと模索するような魅力的な計画の中心で快活に過すことの、どちらにより価値を見いだすのか。また、ブー野郎がブーでしかないのは、この5年間に急激に変化した国際協力体制への対応が全くできなかっただろう、この大いなるチャンスを生かすことはできず、指をしゃぶりながら、仲間はずれにされたと阿呆な文句を言うだけだっただろう、ということだ。SCOPEはうまくやったというわけではなく、世界が共感するレベルに理想を置き、それを決して下げなかったこと、やりたいことが出来ないなら、新しい地平線をもたらすぐらいのことが出来ないならやらんという凛とした態度を貫いたこと、ISASの理学委員会がそれしか許さない雰囲気であること(小型科学衛星提案にすら、何かしらの世界トップ要素が求められる)、などの要因があった。
科学は世界観をつくっていくものだが、研究スタイルはそれを実施する科学者の世界観を如実に反映している。