スタッフ出張報告
疾風怒涛の2007年9・10・11月
藤本 正樹
● 日程 (海外出張の場合は出国日・帰国日を示す)
9・13〜9・20 ツールーズ(フランス)、ベルリン
9・20 ESAとの会合(相模原)
9・24 BepiColombo
MMO SOWG(相模原)
9・25〜10・7 オルレアン(フランス)、モスクワ
10・8〜10・14 パリ
10・15 大学院講義開始
10・21〜10・28 パリ
10・31 ISAS外部評価(相模原)
11・3〜11・11 プエルトリコ、ワシントンDC
11・16〜11・25 グラーツ(オーストリア)、ノルドヴァイク(オランダ)、パリ
● ベルリン
BepiColombo SWTのためにベルリンに来ている。BCはESAとの共同水星探査計画で、ISASはMMO(磁気圏探査機)、ESAはMPO(惑星探査機)を担当するが、ミッション全体としてのサイエンスを推進するためにSWTを年に一度開催している(これとは別に、それぞれの探査機のサイエンスに特化した会合としてSWGが年に数回ある)。藤本はMMO Project Scientistであるので、基本的にSWT、双方のSWGに参加しなければいけない。
SWT会場は、旧東独地区の再開発地域にある。テーゲル空港からはベルリンを横切ることになり、急行バスで中心部ツォーに着き、そこからSバーンを乗り継いで行く。全部で1時間程度、今回はフランス経由だが日本からダイレクトだとしんどいな、と思いながら乗り換える。すると、あと5駅ほどというあたりで、何やらばたばたした雰囲気。工事なのでバスでの振替輸送というところまでは英語の案内があるが、それ以上の具体的な話は全て、黒板にチョークで手書きのドイツ語しかない。だいたいはわかるが、umsteigenの意味がわからないのではっきりしないし(今、思えば「乗り換え」に決まっているんだけど)、駅員に聞いても物凄い勢いでドイツ語を話すだけだし、おいおい、と何度つぶやいたことだろう。ある駅で降ろされ、階段を降り、案内がほとんどない中を通りの反対側にあるバス停まで歩き、ぎゅうぎゅうのバスに揺られ、着いた駅では階段を上ってプラットフォームへ、2駅だけ乗ったら反対側のプラットフォームへの乗り換えで階段を上り下り、もちろんスーツケースを持ってである。ホテル到着はツォーから2時間経過した後であった。翌日会場で会ったISASメンバーは、日本から夕方到着して上を経験したはずなのだが、けろりとしている。頼もしいかぎりだ。
会議ではサイエンスの盛り上げ役であり、NASA水星探査計画(MESSENEGR)担当者と意見交換するなどそれなりに仕事はしたつもりだが、やはり落ち着かない。藤本は、欧州勢との将来における共同ミッション計画のとりまとめをしており、10月11日にESAにおける審査、その前座のような会合が9月20日(ベルリンから帰国した朝の午後)に相模原で控えているからである。というわけで、17日のESA連中との飲み会は参加したものの、18日のコンファレンス・ディナーは欠席し、プレゼン準備をした(翌日、帰国途中のミュンヘン空港ラウンジで完成)。
● 相模原
朝成田着で昼前に家に着き、シャワーを浴びてから駆けつけたESAとの会合(20日)では手応えを感じたものの、自分がどれほど客観的なのかはわからないので、落ち着かない気分が続く。制限の多い水星ミッションにおいて如何にサイエンスを最大限化させるかをきっちり議論すべきMMO SOWG(24日)が、どうも盛り上がらないのも気になり、すっきりしない。自分のせいなのか、まだまだ先の話だと思われているからなのか、それとも、ミッションへの興味が大きいのであってサイエンスへの興味は小さいのか。
● オルレアン
オルレアンは、パリ・オステルリッツ駅から1時間ほどの街である。CDG空港からRER,メトロを乗り継いで駅に到着すると、列車が出たばかりで1時間を雰囲気の悪い夜の駅で過す。23時発の列車は、微妙に遅れて出発し、10分遅れでオルレアンへの入り口駅に到着、そこで乗り換え、しばらく待ち時間があり、どういうタイミングなのかよくわからないけれど、とにかく出発した3両編成のシャトル便が3分後にオルレアンに着いたときは深夜0時30分であった。やれやれ。
会議はESAの世界初編隊観測計画Clusterの成果と始まったばかりのNASAの世界初の多点観測計画THEMISへの期待に関するものであり、一方、藤本は2017年打ち上げを目指す次世代のISAS−ESA共同計画SCOPE・Cross‐Scaleの話をした。二週間強の後にCross‐Scaleの(ESAでの第一次の)審査結果が出る状態でのプレゼンは落ち着かないこと、この上ない(SCOPEは来年度ISASでフェーズ・アップ審査を受ける予定)。中世の雰囲気のあるレストランでのヨコ&パワー・ディナーで、THEMIS責任者(というより友達の Angelopoulos)と「USも一緒にやろうぜ」となるが、どことなく上の空である。いつものように、スウェーデン・ウプサラ組とClusterデータ解析とプラズマ粒子数値計算との融合ネタを議論するも、どこかで、お前らはいいよな、と思っている。先頭に立つことに伴う不安。この経験は、今後、色んな場面で生かしてやろうと思う。
会議のランチはフランス版コンビニ弁当、ポスターセッションでのワインはテトラパック入り、きわめつけは、コンファレンス・ディナーがロシアン・スタイルで、踊らされるわ、メシそのものはなってないわ、あ”〜といったところである(ちなみに主催者はオルレアンで教授を張るロシア人)。そこで、フランスらしい微妙な色合い(紺系)のスーツを買ってストレスを発散する。
● モスクワ
2007年10月5日は、実は、人類が宇宙への第一歩を印した日からちょうど50年にあたる。1957年のこの日、当時のソ連はスプートニックを打ち上げて宇宙競争に火蓋を切って落とした。そして、一歩出遅れたUSではケネディーが強烈なリーダーシップを発揮し、最後はアポロの月着陸で逆転勝利を挙げた。ちなみに、この国家の威信をかけた競争の結果は、金さえかければ月着陸ですら出来てしまうということを証明してしまい、工学研究の最先端たるべき宇宙開発の現場にある種の悪影響を及ぼし続けている側面があると聞く。
50周年記念式典にロシア宇宙科学研究所(IKI)の所長(Zelenyi)から直々に招待されたので、パリから直接モスクワに向かう。IKIが何でも手配するということなので、何もわからないまま空港に到着、人がうじゃうじゃ居る東南アジア的なカオス(そして、この感覚は滞在中ずっと続いた。モスクワは、バンコックを寒くしたようなものだと思う。)の中、IKIが手配したタクシーに乗り込む。フロントガラスに大きなヒビのあるタクシーは、滅茶苦茶な走りで高速を飛ばして市内へと突っ込み、渋滞に巻き込まれた。そして、1時間以上ぐだぐだやっているうちにホテル着いたらしく、下ろされる。市内のどこなのか全く不明だし、運転手は英語と笑顔を知らないらしい。フロントへ向かうと、どうやら式典に関係するがもうひとつの別のホテルに着いたらしいことが、これまた、笑顔のないフロント係から知らされる。あわててIKIの知人(Petrukovich)の携帯(ちなみに、モスクワ人は携帯が大好きなようだ)に連絡すると、タクシーで行けと言うが、今どこにいるかもわからず、ホテルの名前以外は何処に向かうかもわからず、ルーブルの所持金もゼロで、何より運賃は交渉制であり、それはあり得ない。西田先生を送り届けている途中の彼に、その後で迎えに来てもらうようにしてロビーで待った。2時間以上待つ間、何やってんだ?的な挨拶を、やはり、式典に参加する知り合い数人から受けつつ、ようやくやって来たPetrukovichと一緒に乗り込んだタクシーでさらに30分以上も走って到着したアカデミー御用達のホテルは、「ソ連」の雰囲気ありありで、何も期待できず、もはや早く帰りたいという気持ち以外はなく、空いているはずの腹も心細さでどうにかなってしまい、ぐったりとベッドに潜り込んだのだった。
翌朝、西田総研大理事と松本京大副学長の紫絨褒章コンビとともに朝食。どうにもしようのない食事で、藤本は滞在中の朝食抜きを決意するも、お二人はお元気に召し上がっておられる。その後、バスで会場に向かうも渋滞で、ぐだぐだする。会場のコーヒーはどうしようもないもので、げんなりする。路線図を入手して乗るようになった地下鉄もやたらうるさく駅もやたら混雑していて、厭になる。何かが少しずつ違うことはこんなに疲れるものなのかと思う。特にパンの類がシケっているかのようでモソモソしていたのが、辛く悲しかった。
今回のプレゼン内容は、水星・地球・木星を繋げて考える「宇宙プラズマの将来・日本の20年計画」である。紫絨褒章コンビにもお褒めいただき、NASA・ゴダードの関連分野トップ(Slavin)にも興味を持たれるも、あと一週間でその構成要素の実現を大きく左右する審査結果が出るかと思うと、やはり落ち着かない。いや、むしろ、「言葉だけで実態はなしだったのかよ、けっ。」と、評価が反転する最悪の事態がちらつき不安である。この経験は必ずどこかで…。
ボリショイでオペラ「スペードの女王」を見た帰り、IKIのスタッフ(Elena、ファーストネームのみを知る)の妹がボリショイ・バレエ学校の最高学年にいて最上位の成績で卒業する見込みで、間違いなくバレエ団の一員として舞台に間も無く立つ、という話をした時だけは、心から楽しめた。
帰国日の朝、空港までのタクシーはIKIが手配してあるはずだった。が、約束の時間を15分過ぎてもタクシーは来ない。例によってPerukovichの携帯に電話すると、今から2台注文するので先に来たほうに乗れ、運賃は交渉しておくから1100ルーブル払ってくれ、という。そして、やって来た「大学一年生が夏休みのバイト代を貯めた買った15万円の中古車」のようなタクシーで空港に向かったのだった。約束の時間はフライトの4時間前だったのだが、その理由はこういうことだったわけだ。ルーブルの手持ちはなく、到着した空港でえいやっと換算してユーロを渡したら、運転手は文句も言わず、かといって、にこりともせず、受け取ったのだった。
● パリ
10・11のESA・HQでの太陽系科学分野・将来計画審査会に備えてパリ入りした。モスクワから帰国して26時間後に出国したわけである。こういう旅程はISASに来て1年半で既に三度目である。気が張っているので体調的には問題はない。
ESAではCosmicVision2015−25と称して、2015年から10年間でのミッション提案をコミュニティから広く受け付けた。その中で、(1)地球磁気圏を宇宙プラズマの実験室とみなし、様々な衛星間距離で展開する10機程度の編隊で宇宙プラズマ・ダイナミクスのマルチ・スケール観測を行い、宇宙プラズマの真髄へと迫るCross−Scale計画 (ISASのSCOPEと共同)、(2)生命居住可能性のある衛星エウロパの精査と木星系の総合探査(ガリレオ衛星、磁気圏、木星大気)を3機の探査機で実施するLaplace(ISASが磁気圏探査機JMOを担当しながら、エウロパ周回機EO・木星周回撮像機JPOにも参加する方向で提案書作成に参加した)、この二つの国際共同提案のとりまとめを藤本はしてきた。そして、応援演説のためにパリに乗り込んできたのだ。Cross−ScaleはMクラス、LaplaceはLクラスと、異なる予算クラスに提案しているので衝突はない。太陽系科学で、最終ステージに残ったのは8提案、この審査会で3〜4まで絞られ、翌週の宇宙科学全体での審査へと進む。
前々日、前日と打ち合わせをするが、時間的には余裕のパリ滞在である。しかし、観光という気分には程遠く、また、他の仕事をホテルでする気もなく、頭の中に二つのことをぐるぐる巡らせながら、パリの街をほっつき歩く二日間を過す。特に、Laplaceに関しては、最後の30秒をキメてくれ、と欧州側代表者の Blancに言われていたので演説原稿なんかを作ったりした。Cross−Scaleも同様と思い準備したのだが、代表のSchwartzに、オレが時間を全部使う、時間がないからいらん、と言われる。が、当日、準備しておいたことが効く。
当日の朝。お気に入りのフランス製(De Fursac)・黒/チャコールグレイのスーツに、白シャツと派手めなパープルに白ドットのタイ(たまプラ「鎌倉シャツ」)をあわせる。不首尾に終わったら、これらは二度と着ることはないのかなと、ちらっと考える。ニースで購入したお気に入りがお蔵入りなんて…。
Cross−Scaleが昼食直後、その後すぐにLaplaceというスケジュールなので、SchwartzとESA・HQ入りし、控え室を覗いたあと、食堂で昼食を取る。控え室では昼食直前組と鉢合わせたが、国際的という雰囲気に程遠いチーム編成(見るからに全員が同じ国の人間)を見て、勝ったなと思う(今回、ESAは国際共同を重視するらしい):まるで、中学高校時代のサッカー試合会場での自分に戻っている。食堂では、隣のESA職員であろう婦人がサラダの茹卵から黄身を抜き取って白身だけを優雅に食するのをぼんやり眺めたりする。食後のコーヒーでは、審査員(半分は知り合いである)と一緒になり、週末にあるラグビーW杯準決勝・フランスvsイングランドの話などをする。
いよいよ審査会場へ。配布資料を配っているとESA・HQの某大物に、おうっ、と声を掛けられ、衆人環視のもと、がっちり握手をする。おいおい。Schwartz先生はいつものように、するすると話し、あっと言う間に20分が終わる ( Cross-Scale 発表資料 PDF [5.6MB] )。そして質問へ。それなりに良い質疑のやりとりの後、なぜか予算見積もりの精度という話になり、そうなるとこれに関してESAが情報制限をかけたことにご不満のSchwartz先生もギア・チェンジし、会場は混乱気味になる。しばらく応酬があった後、どうにかまあまあという雰囲気になり、このままでは何だと思った議長が、せっかく日本から来たのだから一言どうぞ、となった。直前の混乱に動揺していなくもなかったので準備がなければヤバイところだったが、堂々とこなすことが出来たと思う。
直後のLaplaceのために会場に再入場すると、久しぶりだね、と某大物から、またしても全員に聞こえるように冗談を向けられる。おいおい。しかし、これ以外は印象が薄い。プレゼンそのものはサイエンスよりもミッションに重みがあって藤本にはやや退屈だし、シナリオ通りに進んだし、Laplaceという王道を行く提案を目の前にして「ちょっとこれには文句を言えないよね」という雰囲気が審査員(全員、太陽系科学関連の研究者である)にありありだったからである (Laplace 発表資料 PDF [420KB] )。最後に演説をしたけれど、誰も聞いている感じがしなかった。要するに、つまらなかった。
終わってから控え室に戻る途中、次の組とすれ違う。その分野は既に将来計画が充実しているので今回はチャンスなし、という下馬評の組である。実際、彼らは修道僧のように重苦しい雰囲気を纏っていた。頭の中でグレゴリ聖歌が鳴った。
外に出てカフェでSchwartzとビールを飲む。「黄金の20年計画」を標榜するISASプラズマ・グループとしては、二つとも通ってもらわなければ困る。しかし、二つの審査経緯の対比が頭の中にありCross−Scaleが心配である。一方、Schwartzは「んま、大丈夫だな」と余裕である。お前なあ、と思うが暗い話をしても仕方がないので、彼の奥さんがフランス人である話などをして過す。夕方のユーロスターでロンドンに帰るSchwartzと別れたあとは、8時のBlancらとのディナーの待ち合わせまでパンテオン周辺をぶらぶらする。待ち合わせはノートルダム聖堂前で、聖堂の夜での美しさを堪能できたのはよかった。レストランはカルチェ・ラタンの、とまではよかったが、もう一人のJPLから来た氷星人がベジタリアンで、インド料理屋へとなり、…もういいだろう。
翌日の夕方、Cross−Scaleが2位通過という知らせがSchwartzからメールで届いた。1位はもちろんLaplaceであるが、クラスが違うのでこの差には意味がない。つまり、can’t be better という結果だったわけだ。あれだけ心配したんだから、この結果は物凄く嬉しかったか?…正直に言えば、やれやれ、と安堵した。つまり、何やかんや言って、通るはずだと思っていて、だからこそ、いろいろ心配していたということなのだろう。やれやれ。それほど自慢する気にもならない。それは、まだ宇宙科学全体での審査を控えているからかもしれない。また、SCOPEは大丈夫か、JMOをどう立ち上げるのか、とすぐに次の案件が頭に浮かんでくることもある。やれやれ。
● 相模原
ESAにおける宇宙科学全体での審査結果を待つ。 考えてみれば、よくぞ、ここまでスムーズな話し合いが出来てきたものだと思う。藤本が担当してはいたものの、やり方を誰かが教えてくれたわけでなく、ましてや、やり方を知っていたわけでもない。というわけで、策を弄するというオプションはあり得ず、科学への熱意を前面に出すことで乗り切った。その一方で、この範囲内ではあるものの、キメるべき内容やタイミングは身体感覚で察知してチャンスは逃さないようにしてきた(サッカーではFWでした)。実際、初めてのCross‐Scale会合 (2005年6月グラーツ)での自分を思い出すと、今とは余裕の有無に雲泥の差があることに気づき、この2年半である種のスキルを身に付けたことを実感する。この経験は共有され分野における財産とされるべきだろう。そこで、このスキルへと繋がる感覚を育成するような大学院授業を15日に開始した。実に、ESAでの最終審査の3日前である。結果が最悪なら企画に説得力がないこと、はなはだしい。こんなところでもリスク・テイクしているのだ。
18日夕方、わずか一行のメールによる非公式第一報が入る。Cross−Scale通過!しばらくして、全体の様相が準公式〜公式(ここは、ものすごく曖昧。欧州らしいと思う)に伝わってきて、Laplace通過も確認する。両方を通すという当初の無謀とも思えた目標が、第一段階ではあるが、100%達成されたわけである。やれやれ。2006年4月のISAS移籍で自らのキャリアを3速へとシフトしたのだが、一年半後のこの瞬間、最高出力回転数に達したと表現していいのだろう。しかし、嬉しい、という浮ついた感覚はない。タイヤが路面をしっかりと捉えているのを感じている、とでも喩えられようか。
( 目標達成の為に使われた資料: Cross-Scale, Laplace )
● パリ
水星研究会でパリに来ている。正直、今回はかなり「抜いた」気分である。それでちょうどよい感じのフランス・スタイルの研究会である:キャンセル続出、開始時間はでたらめ、椅子は背凭れが壊れている、誰も持ち時間を守らない、休憩時間にマカロンが出る、昼食にワインを注文する、エール・フランスのストが始まる、…。それでも、Delcourt, LeBlancとの信頼関係(のようなもの)を改めて築くことが出来たのでOKだろう。
ESAでの審査結果が出た直後ということがわかっていたので、どうであれ、少しゆっくりしようと、贅沢にモンパルナス地区の便利なホテルを予約し、毎朝、ルクセンブール公園〜パンテオン〜パリ第六大学と散歩して通った。そして、オペラ・ガルニエに「椿姫」を見に行った。前から2番目のバルコニー4階の最前列で、指揮者を真下に見下し、かなり楽しめた。ヴィオレッタがショート&カーリー・ヘアで現代衣装という演出だったので、舞台を見る興味はほとんどなかった。
秘書軍団にいつものお礼ということで、ダロワイヨのクッキーとマレ地区にあったショコラティエでチョコを買って帰った。ラデュレのマカロンは、見た目は素晴らしいのだが、日本人の口には甘すぎると、前回、不評だったのだ。もっとも、パリではマカロンはおいしく感じられたので、気候の違いということもあるのだろう。
ホテルには日本人グループがいた。ネット信号強度の都合上、ロビーでメールをしていると、若く美しいロシア女性が英語で「ユウキ、いる?」と訪ねて来た。「グループの代表の名前しか知らないし、それはユウキでないし、かつ、グループは全員外出中」とフロントが答えると、「あ、そう」と携帯電話で確認し始め(英語)、「んじゃ、また」と帰って行った。その間、**日本人の友人を訪ねて来たにも関らず**こちらには目も向けない。ふ〜む。30分ほどして、また別の若く美しく英語を話すロシア女性がユウキを訪ねてきて、同じことを繰り返した。ふ〜む。
● 相模原
外部評価は経営マターであり、管理職が対応すべきことであろう。藤本は、外部評価での研究系・成果口頭発表は管理職がやることだと思ってまったく絡んでいなかった。なのに帰国してみると、3日前の段階で、準備ができないからやってくれというのはあまりにひどい話ではないだろうか。まあ、不得意ではないので、さくさくと太陽・大気分野の資料を取り寄せ、さらさらとプラズマ分を作り込み、当日は問題なくこなせた。元東北大の大家先生が評価委員で来ておられ、ちょっとしたバトルを楽しめたのはよかった。
IKIの所長Zelenyiも評価委員で来ており、何かと相手をした。実は、藤本はモスクワからの飛行機(ミュンヘン行)でドイツ・X線天文の大先生と隣になったのだが、彼も帰りのタクシーでは同様なトラブルがあったので大いに盛り上がった。そのことがZelenyiにメールで伝わったらしく、「ルフトハンザに乗っていた若い日本の研究者って、お前だろ?」となり、モスクワ・ネタで話し込むことになった。意外と言っては何だが、言葉の端々にモスクワ自慢が滲み出ていたのが印象的である。
● プエルトリコ
NASA・CCMC会議が、プエルトリコのアレシボ電波観測所(あの映画「コンタクト」のアレシボです)で開催された。CCMCを利用して、PD西野と一緒にちょっと面白い仕事をして、そこでCCMCの可能性を余りに強烈に実感することになったので、感謝の意味も込めてユーザー・インプレッション的なプレゼンをしたのである。結果の面白さには自信があるし、CCMCはとにかく素晴らしいと思っているので、こんなに簡単な仕事はなかった。HesseをはじめとするCCMCスタッフ、さらにはBATRUSコード・オーナーのGombosiと親しくなれたことは、今後、CCMCをどんどん活用していくであろうことを考えれば、収穫だろう。また、CCMCのMasha (ファーストネーム)が、「ニシノとミホ(サイトウ)のメールは信じられないほど丁寧で、彼らのためなら出来るだけの協力をしようと思った。それに比べてUSの学生は…」と言っていた。 [ CCMCの解説についてはこちらへ ]
CCMCをめぐる熱気はかなりものである、日本ではそれほど認知されていないようだが。「日本でも…」と言ったところで、もはや追いつくことは無理だろうし、ましてや、モデルがどんどん精密化の方向に進むのであれば、マンパワー的に太刀打ちできるはずもない。キャラ立ちするポイントを作って、そこを梃子にCCMCとの共同を考えるべきだろう。SCOPE/Cross‐Scaleにおいてはマルチ・スケール計算との融合が必要になるだろうから、CCMCも次世代の目標としてここをターゲットにするのだろう、などHesseと話し合った。ここにはDeveloper として参加しなければならない、今は100%ユーザーだが。「計算王」というキャラがある篠原に期待。
● ノルドヴァイク
11・21に第一回Cross−Scale Science Advisory Group (SAG)キック・オフ会合をESA・ESTECで開催するから来るように、との連絡を11・7にプエルトリコで受け取った。その他の打ち合わせとリンクさせて日程を組み、慌ててWTSの澤田さんにチケット手配を連絡するも、三連休があるため満席でキャンセル待ちとなる。絶対に参加しなければいけない会議なので、どうにかしてくれと、13時間の時差に邪魔されながらも連絡を取り合う。澤田さんはもの凄い勢いで調べてくれ、最悪に備えてロンドン経由のチケットも確保し、常に満室気味のパリのホテルも見つけてくれ、そして、ついに無事に通常通りのチケットを入手できたのだった(11・9)。今は11・10、帰国便への搭乗を待つDCの空港で来週の欧州歴訪の準備を考え始めたところである。
<藤本 正樹 / 編集: 田中 健太郎>